ダメリーが人生の成功者になるためにーチェ  「ㄟ⁰ㄋㄟ⁰ㄋㄜㄝㄋ 」

ㄟ⁰ㄋㄟ⁰ㄋㄜㄝㄋ
ㄟ⁰ㄋㄟ⁰ㄋㄜㄝㄋ!!!!!!!



どうもダメサラリーマンです。
異動を命じられました。
部署は変わりませんが、何もかもがガラリと変わると思うと少し憂鬱でもありますが
楽しみが増えたと思って前向きに頑張ります。


人生最後のとき、不思議な人物がそばに現れ、こう問いかける。
「もし、おまえが、この人生とまったく同じ人生をもう一度生きよと問われたならば、『然り』と答えることができるか?
さらに、この人生とまったく同じ人生を、何度も、何度も、永遠に生きよと問われたならば、『然り』と答えることができるか?
その永劫に回帰する人生を喜んで受け入れることができるか?」

然りと答えられる人間がいるならばそれは成功した人生を歩んできた人間だそうです。
ニーチェが言ってました。



昨日 上司がこんなことを教えてくれました。

人生における成功者になるためには
人生における成功とは何かを考える必要があります。

あなたが「人生の成功」を考えたいのであれば、
「自分の個性」を見出さなければならない。
「自分らしさ」を見出さなければなりません。


人間の本質には3つの思想があり、我々が人生において、年齢と経験を重ねるに従って、一つの思想から、もう一つの思想へと成熟し、さらにもう一つの思想へと深化していきます。

1.勝者の思想
2.達成の思想
3.成長の思想

です。

勝者の思想は、人生を「競争」と考え、その競争において「勝者」となることを人生の成功と考える思想。我々が人生の最初の時期に影響を受ける思想です。

受験勉強とか部活とか。
単純なモノサシで優劣を決める非常にわかり易いものです。

社会全体が「競争社会」へと向かっており、「競争が社会を良くする」との思想が世の中に浸透しています。構造改革の推進、市場原理の導入、企業での競争原理の徹底とか。



しかし、競争社会は人生観の貧困を招きます。
競争原理を導入する時、「人間はなぜ、一生懸命に働くのか」という問いに対し、下記のような人間観を抱いてしまいます。

「人間は、競争に駆り立てられなければ、一生懸命に努力しない」とね。


社会の生産性の低下を憂い、企業の労働意欲の減退を嘆く前に、大切なことを自らに問うべきです。


勝負ばかりで生き残りをかけたサバイバルのような生活を送っていては寂しい思想にたどり着いてしまう可能性があります。


我々が一生懸命働くのは
・生き残るためではない
・勝ち残るためではない
・サバイバルするためではない

しかし、「競争での勝者」=「人生の成功者」という発想は、その 素朴さと分かりやすさ故に、我々の心の奥深くに入り込んできます。知らず知らずにうちにね。

「個性」を抑圧することを無意識に求められてきた日本の社会風土の中では、「自分の個性」を発見する、「自分らしさ」を見出すことが難しく、仮に見出せたとしても、その「生き方」を貫くことが難しいのです。

ある旅人が、旅の途中で道を見失い、不思議な国に迷い込んで しまいました。その国は、一つ目人間の国だったのです。
その国の住民は、誰もが、目が一つしかない人びとであり、旅人のように目が二つある人間は、一人もいなかったのです。
その国に迷い込んだ当初、旅人は、変わった風貌の住人を見て驚き、そして、しばらくは、彼らを不思議に思って眺めていました。
しかし、その国で何年も過ごすうちに、旅人は、段々孤独になってきました。
自分だけが二つの目を持つことが、異常なことのように思われてきたのです。
そして、その孤独のあまり、ついに、その旅人は、自ら、片方の目をつぶし、一つ目になったのです。

「競争の勝者=人生の成功者」
と考える社会において、「自分自身の個性」を発見し、「自分自身の成功」を定義して生きていくことは、厳しい「孤独」との戦いを強いられます。
孤独に耐えられない我々に対し、「勝者の思想」の影響力は強い。
我々も、自ら、片方の目をつぶそうと考えてはいませんか?



(1)経済的勝者 他人よりも高い給料や年収を得ること
(2)地位的勝者 他人よりも高い役職や地位に就くこと
(3)名声的勝者 他人よりも高い名声や名誉を得ること

勝者の定義を金や地位や名声だと、そう感じていませんか?


しかし、競争社会の本質として、勝者になれるのはひと握りの人間だけです。
「誰かが勝者になれば、からなず誰かが敗者になる」
「誰かが何かを得れば、かならず誰かが何かを失う」
「誰かが喜びを得れば、かならず誰かが喜びを失う」
数多くの人間は敗者の悲嘆を味わうばかりです。

仮に勝者になれたとしましょう。
勝者には以下のような問題がついてまわります。

(1)果てしない競争
勝者の喜びは一瞬であり、すぐに次の競争への参加を余儀なくされる。競争し続けることが求められる。
(2)精神の荒廃
ひとつの競争で勝者になっても次の競争が待っているという「強迫観念」。強迫観念は心のゆとりを失わせ、思いやりを喪失させるだけでなく、敗者になることへの不安から「勝者の驕り」を示す。
(3)人間関係の疎外
人間同士を徹底的に競わせるため、人間 同士の結びつきを壊す。


競争で勝ち続けても、本当の成功の喜びは得られない時、我々は、「勝敗」に左右されない思想を求めるようになる。
そこに、自然に、さらに成熟した思想が生まれます。

それが達成の思想です。

達成の思想とは人生において「目標」を定め、それを「達成」することを人生の成功と考える思想です。


勝者の思想とは
他の登山家と競争をしながら誰よりも早く頂にたどり着くことを喜びとする思想であるのに対し

達成の思想とは
他の登山家との勝敗にこだわることなく、自分自身のベストを尽くして登り続け、その山の頂にたどり着くことそのものを喜びとする思想です。


達成の思想が勝者の思想よりも成熟しているのには3つのわけがあります。
勝者の思想が喜びの奪い合い(誰かが勝者になれば、必ず誰かが敗者になる)が本質であるのに対し

達成の思想は喜びの高めあい(多くの人々との間で、互いに励まし、支えあい、ともに目標を達成して、ともに「達成の喜び」を得る)というものが本質にあります。


次に勝者の思想は他人の目による評価であり
自分の力の誇示。金、地位、名声等、誰から見ても分かりやすい基準で勝者になることに対し
達成の思想とは自分らしさの表現が判断基準となり
自分自身にとって価値があると感じられるものを探し、それを目標に定め、その達成のために努力するようになります。


最後に戦いの相手が大きく異なります。
勝者の思想は「他者との戦い」です。
戦いの相手を他人に定めるとき、心の奥深くの劣等感、傲慢さ、猜疑心、不信感、羨望や嫉妬といった否定的な感情やエゴの衝動がありますが
反面、達成の思想は「自己との戦い」に向かうため
目標を達成する過程で直面する問題は全て「自分に原因がある」と捉え、自分がどう成長すれば良いかを深く考えます。精神的にはもっとも迷いの無い戦いです。



しかし、達成の思想にも限界が見えてきます。
それは以下のような3つの理由からです。

(1)運 人生において、目標(夢)を達成できるとは限らない。「努力」「才能」「境遇」に加えて「運」が必要。運によって、目指していた目標を達成できなかった時、どうすれば良いか?
(2)人生は続く 若き日にすばらしい目標を掲げ、その目標を達成できたとしてもそれで人生が終わるわけでは無い。ハッピーエンドの映画の物語は終わるが、実際の人生はその後も続きます。
(3)目標の設定 一つの目標を達成したとしても、さらに大きな目標が生まれる。「達成の喜び」を得た時、さらにそれを上回る「達成の喜び」を求め、目標を立ててしまうのです。

この世に生を享け、かけがえのない命を与えられました。
それだけで、自分は恵まれた存在である。だから、この命を大切に使いたい。
そうした感謝の思いから生まれてくる「意欲」。この意欲により高き目標を抱くとき、その先にある、「成長の思想」へと向かっていきます。


成長の思想=人生の「困難」と格闘することによって、人間として「成長」すること、そして、人間として「成長」し続けていくことを人生の成功と考える思想です。

決して目標を達成するために仕事をしているわけでも、他人よりも良い成果を出すために仕事をしているわけでもありません。
我々が一生懸命に仕事をするのは、人間を磨き、成長していくためであります。その覚悟が成長の思想の根底にあります。
もう一度言いますが、この人生を一生懸命に生きるのは、競争で勝者となるためでも、 目標を達成するためでもない。人間を磨き、成長していくためである



このような思想の変化を遂げ我々は
人生における「困難」の意味が、逆転し
人生における「強さ」という言葉の意味が、変わり
人生における「成長」という言葉の意味が変わります。



イチロー選手が、あるピッチャーとの対戦で、何試合もヒットを打てず、押さえ込まれていました。
そのことについて、あるインタビュアーが、聞きました。
「あのピッチャーは、苦手のピッチャーですか」
その問いに対して、イチロー選手は答えました。
「いえ、そうではありません。彼は自分の可能性を引き出してくれるすばらしいピッチャーです。だから、自分も、力を磨いて、彼の可能性を引き出せるバッターになりたいですね。」

イチローにとって「困難」は、決して「否定的な出来事」ではない。 それは「可能性を拓く機会」。困難とは、我々が、大切なことを学び、成長していくためのすばらしい機会であります。

大きな「夢」を描き、それを実現しようと力を尽くすとき、我々は自ずと「困難」に挑戦することになる。そしてその「困難」が、我々をさらに大きく成長させてくれる。だから我々は夢を抱くのです。


「夢」の実現はかならずしも約束されてはいない
「夢」の実現に向けた努力は「報われない努力」か?
困難に挑戦し、一人の人間として成長することができたならば、それは「最高の報酬」である。
成長の思想とは、その「最高の報酬」を見つめる思想に他ならない

勝者の思想における「強さ」とは人生の競争において勝者となる強さであり
達成の思想における「強さ」とは人生において掲げた目標を成し遂げる強さである。

この「強さ」の定義に基づく限り、多くの人々は必ず敗北や挫折を経験する。いつか必ず、敗北感と挫折感を味わうことになります。

成長の思想における「強さ」とは人生において、いかなる敗北が来ようとも、いかなる挫折を 味わおうとも、その敗北と挫折の体験の中からかならず何かを掴み、かならず成長する強さのことであります。


我々が「人間としての成長」を目指す時、「すばらしい人物」へと成長することを考えます。
それは「人物を磨く」といった成長観です。
しかし、その達成の喜びは約束されていません。

しかし、我々が真の成長の思想のもと今日という一日を生きたとき、今日という一日の経験だけ、たしかな成長を遂げる事ができます。
「すばらしい人物」への成長は、「一日の成長」という生き方の結果として与えられるものにすぎない
のです。

人生はいつ終わるか分かりません。
その真実があるかぎり、何十年か先の達成は約束されておらず
「成長」とは、究極、「一日の成長」に他なりません。
しかし、ときに、何十年の歳月を歩んでも成長していないこともあります。


大切なのは、「生きる」ではなく、「生き切る」こと。
ただ漫然と生きるのではなく、与えられた一日を、生き切る。
もし、その生き方ができるならば、その時、我々は、その一日、「最高の成長」を遂げることができる。
なぜ我々は「競争」するのか、なぜ「目標」を掲げ挑戦するのか。 それは、勝者の喜びを味わうためでもなく、達成の喜びを味わう ためでもなく、一日一日を生き切るためである。
一日一日を、成長していくためである。


アカデミー賞女優のウーピーゴールドバーグがあるとき、ニューヨークのアクターズ・スタジオで俳優修行をする若者たちから質問を受けました。
「我々は、将来、役者になることを夢見て、毎日、毎日、厳しい修練を積んでいます。こうした我々の努力はいつか報われるのでしょうか?」
この質問に対して、ゴールドバーグは暖かいまなざしで答えました。
「いま、あなた方は、いつか役者になりたいとの夢を持ち、すばらしい仲間とともに、励ましあい、助け合いながら、毎日、その夢を求め、目を輝かせて生きているのでしょう? そうであるならば、あなたがたの努力は、既に報われているではないですか。」

成長の思想を抱いて歩むとき、人生の旅の途中で巡り合うすべての人々が、かけがえの無い人々であると感じられます。
そうして歩んでいく旅もいつか、終わる時がやってくる。
そして、その旅が終わろうとするとき、その最期の一瞬に、あの不思議な人物が現れ、そして我々に静かに問う。
すばらしい旅であったか?
そのすばらしい旅に感謝するか?

感謝したくねぇ!!

俺だって一度くらい勝者になりてぇんだ!

神様俺だって一度くらい勝者になったっていいだろ!

彼女の一人くらいできたっていいだろ!!!


彼女ができないモテない僕から更に髪の毛まで奪っていこうってのかよ!憎いね神様!

俺みたいなちっぽけなしょうもない人間だって一度くらい勝利の酒に酔いしれたっていいだろ!!
俺が飲んでるのはいつだって、色の付いた泥水みてぇーな酒だ。

人が吐いたゲロばっか食ってる。


ㄟ⁰ㄋㄟ⁰ㄋㄜㄝㄋ




絶対俺はやるぞ。
すげーって思わせてやる。
頭が悪い下等生物かもしんないけど。
頑張る。とりあえず寝る。