努力はうんち

こんにちは、ダメリーです。

皆さん 何か挑戦をする際に、達成した際の自分へのご褒美を設定したりしてますか?
「試験に合格したらご褒美に○○を買うんだ!」とかです。

それで頑張れるんなら素敵な事ですよね。
いいことです。



突然ですが、僕は最近ダメになったのではありません。

昔からダメだったんです。

中学生くらいから勉強についていけなくなりました。

そんな時、僕は
「希望の高校に入れたらご褒美に自転車を買おう、そのためにはしっかり勉強しよう」
とかは思いませんでした。

「もし神様が出てきて、塾長のケツを舐めたら高校に行かせてやるよって言われたら舐めるのになぁ」って思いながら塾の講義を受けていました。

塾長というのは、僕が中学時代に通っていた塾の長で65歳くらいのオジイチャンでした。
もちろん塾長のケツを舐める趣味があるわけではありません。
むしろ非常に屈辱的で、忌むべき行為です。

それでも、
それだけ屈辱的な行為を行ってでも一瞬の苦労で勉強をせずに済むのであれば勉強をしたくないと強く感じていたのです。

幸い第一志望の高校には受かりました。



部活をやっていた時も、先生たちは僕を県チャンピオンにしてやるって言って、プライベートの時間を割いてまで一生懸命指導してくれていましたが
「神様が現れて 指を一本骨折させれば一回勝たせてやるよって言ってきたら何本か骨折させて県チャンピオンになるのになぁ」ってフザけた事を考えていました。
「両手の指を骨折させれば全国でも入賞できるな!!」とかベットの中で考えたりしてました。


結局、弱い人よりは強いけど強い人には圧倒的に弱いくらいの成績しか残せず、社会人になる際に競技人生を終了させることになりました。



そんな考えで30年近く生きてきた僕がデキリーになるわけはなく、なんとかその日生きていくためのお給料を会社からお恵みいただいている状況。



僕は今までにお金では解決できない「どーしても達成したいこと」や、「どーしても欲しいもの」があってその度 神様にお願いしてきました。

「○○に合格したらなんだってします。どんだけでも努力しますから」
「○○が手に入ったら他の事は我慢します。だから○○をください」

幸い、今まで大抵の事はなんとかなってきて
幸運にも「どーしても・・・」ってやって神に祈りを捧げていた奴は合格したり、手に入ったりしてきました。



んでもね。

合格した後や手に入った後には
あれだけ神様にお願いしていた時に約束していた「努力」や「我慢」は一切しないんですよね。



これはねぇ、本当によくない部分だって自覚しています。
わからないところがあって、調べないとって思ってるんだけれども、家に帰ってから調べるかと言われれば調べず。
勉強するかと言われれば勉強せず。

これで仕事ができないとか言う資格がないんですよね。
僕にできないのは仕事ではなく自己コントロールなんです。


だから評価が悪かろうが、怒られようが、要らない社員認定を受けようが不満を漏らす権利すら無いわけですよ。


「僕はこんなに頑張っているのに上司は評価してくれない」って言える日はくるのだろうか。
そう言えるようになったらダメリーの殻から孵る寸前の状態と言えましょう。








僕なりにデキリーの人たちの共通点を考えてみました。
何点かありましたがデキりーの人たちは

わからなかったら調べる。
試験前には勉強する。
人の話はしっかり聞く。

当たり前の事が当たり前にできるんです。



僕は
わからなかったら調べない。
試験前にも勉強しない。
人の話を聞かない。

という問題児です。



そんな僕でも欲求があります。
褒められたい。褒められたい。褒められたい。
人間の欲求を段階で示したマズロー自己実現理論です。

1.生理的欲求(Physiological needs)
2.安全の欲求(Safety needs)
3.所属と愛の欲求(Social needs / Love and belonging)
4.承認(尊重)の欲求(Esteem)
5.自己実現の欲求(Self-actualization)

衣食住を満たされ、安全な日本に住み平和な日々を過ごし、同僚や友人に恵まれた僕が次にたどり着くのは承認(尊重)の欲求です。


認められたい認められたい認められたい。
当たり前の事を当たり前にしたい。


こんな言葉を聞きました。

努力はうんち、毎日しなければならないが人前でするものではない

なんか凄く感動しました。


うんちは人前でするんだっていう奇特な方には通じないかもしれませんが、
毎日人知れずウンチしていこうと思いました。